長いお別れ

先日の墓参りは、読みかけだった中島京子さんの「長いお別れ」をおともに、鈍行に揺られての一日旅となりました。
ボクが幼い頃、うちは経済的にとても逼迫していたので、両親ともに朝から晩まで働きづめでした。子供と接する時間的余裕もあまりなかったのでしょう。一カ所に落ち着くことのできない祖母がボクを連れ出しては、北関東や東北、北海道を転々としたのです。疑似家族のような親戚が、だから幾つかありました。
そんな事情もあったので(墓参りは祖母と叔父に言葉をかけにいったのです)、「長いお別れ」の一頁ずつが、窓辺の景色以上に雄弁で胸にしみ、忘れることのできない一日となりました。
老いて認知症を患った父親を、三人の娘と妻が息を切らせながら、目を丸くしながら、時には絶望しつつ、怒りつつ、恨みつつ、しかし静止し、微笑み、何度でも立ち上がるこの人間小説は、そう、小説の頭にわざわざ「人間」と付けたくなるほど、我らの本質の一番まばゆいところに立脚しているように思えたのです。
それは、ユーモアというもの。徘徊も、意味不明な言葉も、認知症患者のかたくなな抵抗も、あるいはウンコの世話でさえ、中島京子流のユーモアをもって別角度から見れば、いたましさのなかになにかひとつの種を残す動的な状況となるのです。その種は、誰もが肩を落としてしまうような状況であっても発芽し、「大丈夫だよ」とささやくのですから。
単に、優しさというものでもなく、いえ、むろんそれがあっての物語の運びなのですが、起きている現象を他の角度から見てみるというのは、知恵に裏付けされた本当のユーモア、すなわち教養があって初めてできることだと思います。
中島京子さんご自身も、認知症を患われたお父上との生活があったからこそ、これを書かれるにいたったのでしょう。どの頁にも上質な笑いがあるこの物語に昇華するまで、精神的にどんな旅をされてきたのか。そこにボクは中島京子さんの「人間の器」を感じるのです。
書いていただいて良かったです。どれだけ多くの人が、この物語を読むことで溜飲を下げることでしょう。ほのかな希望を持つことでしょう。作家のはしくれであるボクにとっても、こんな心持ちで一作書いてみたいと思わせるだけの力強い傑作でした。
直木賞作家である中島京子さんには、もちろんたくさんの著作があります。でも、これは彼女の生涯のなかで、類似の作品はもう決して出てこない唯一無二の一冊であるような気がします。