ドミニク・チェンあらわる!

圧倒されている。
芯から倒され、抱きしめられた気分だ。
自ずから立ち上がることを運命付けられていた知の巨人が、
子ども(娘さん)の誕生をきっかけに、さらに新たな地平へと歩みだしたその一歩ずつの輝き。
本当の意味での「コモンウエルズ(国民という意味ではなく、大きな意味での連帯、福祉、公共性)」への道程をこんなにも説得力をもって展開した本がかつてあっただろうか。
いや、「かつて」という言葉はあり得ない。進行するしかない「今」、生まれでる「時」の先端で火花を散らしているのが著者のドミニク・チェンだから。
まだ観ぬ地平と大いなる共感。双方があって表現は初めて芸術になり得るのだとボクは信じている。そのような意味では、この『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)は、本という表現形式を軽く飛び越え、今この時代の難しさを起点とするしかない芸術のその頂きに達している。
デジタルの専門家ゆえ、すこし歯応えのある言葉がないとは言いきれないが、文章の質としてはむしろ詩人や、開高健のような密度濃いテキストを好んだ作家に近い。
いや、本当に驚いている。そして感動している。
ボクは普段から学生たちに、表現をしなさいと繰り返し言っている。レポートひとつ書くのもルーティンの作業ではなく、ひとつの表現だと思いなさいと言っている。なぜなら人は、どんなジャンルであれ、表現をすることによって主体足り得るからだ。誰もがそれぞれの人生の主役であるけれど、
それをより明確にするのが(表舞台に立つ立たないではなく)、各自の場での各自の表現なのだ。
抜き書きをすると、ドミニクはこう記している。
「書くことによって、世界はただ受容するものであるだけではなく、自ら作り出す対象でもあるとわかったのだ。そして、世界を作り出す動きの中でのみ、自分の同一性がかたちづくられるのだということも」
共感を覚えるこうした記述が本書には方々にある。
たとえばボクは、米国から帰ってきたあと、あまりに自分の本が売れず生活に四苦八苦するばかりなので、何かを所有するという人生を諦めたときがある。しかしその瞬間、世界が逆に飛び込んできた。
所有という錯覚ではなく、在るのはただ世界との関係のみだとはっきりわかったのだ。目の前の多摩川の河川敷はだれのものでもなく、しかし感受するという関係に於いて自分のものとなった。所有を捨てた瞬間に「マイ多摩川」が現れ出た。パブリックとはおそらくこういうことを言うのではないか。
似た感覚を、ドミニクも新婚旅行を兼ねたモンゴルの旅で得ている。奥さんと二人で馬に乗って草の海を旅し、遊牧民たちと交流するなかで、所有という概念を捨ててしまった人たちのとてつもない包容力と視野の広さについて語っている。
ここ、凄く共感。
トミニクは、デジタル世界の未来から、親子や友人、あるいは敵対するものとの共棲の解法として常に「関係性の哲学」に注目し、新たな道を切り拓こうとする。本書がフィーチャーしているのは、グレゴリー・ベイトソンの思想だ。
どこかで『悲しき熱帯』のレヴィ=ストロースを彷彿とさせるベイトソンは、しかし思想の鏃が文明批判へと向かうのではなく、世界の事象の関係性の上に立つ生命観へと人生の熱情を傾けていく。
ドミニクはこのベイトソンに影響を受けつつ、彼の手法である「メタローグ」(共話)から、解法が見えなくなり始めた「わかりあえない者」たちにどう橋を渡すかをフィードバック的に導き出そうとする。
とにかく、この本にはやられました。
つまり、ドミニク・チェンにやられました。
なんと気持ちよくノックアウトされたのだろう。
知を信じ、平和の礎になろうとする人にとって必読の書です。