かにめし

ボクは幼い頃、貧しい環境にありました。
父が学生だったので仕方ない。
母は懸命に働いていたし。
小さいボクを祖母が手をつないでくれて、
東北や北海道の親戚のおうちを転々としました。
「かにめし」の詩は、
祖母が北海道でボクに与えてくれた原初の味わいから成るものです。
それがね、長万部(おしゃまんべ)町の最後の観光ポスターになったのです。
普通、観光ポスターって、写真メインですよね。
でも、長万部が黒松内に併合される時、
選んで下さったのはボクの詩だったのです。
今日、北海道の大好きな人から、「まだ貼られていますよ」って、
写真が届きました。
実は、貼られているこのポスターを観るのは、これが初めてのことなのです。
16年かかって初めて観た。
もし良かったら、「かにめし」の詩、
まさに16年ぶりに再現しましたので一読下さい。
ありがとう、長万部のみなさん。
そして今、懸命に人生と闘っている北海道の先輩。
「かにめし」
その風景はあまりに断片的で
古ぼけた写真のように輪郭が欠けている
誕生とつながる海の色
(つまりは無と有の狭間)
鉛筆がぼやけた燦々
(記憶に現われる光)
それでも確かな構図は
砂利を敷き詰めたプラットフォームの向こう側に
その緩やかな球体<海>があり
さらに大きな 豊かな曲線<空>と接していたことだ
ひとつの駅の幻
春であったのか 夏であったのか 秋であったのか
海の向こうにはおぼろげな影があった
魔神 それとも
停車中の列車の窓から
今はもう つたない影に戻ってしまった祖母が
行商のおじさんから弁当を買ってくれた
ぎっしりとカニの身がつまった弁当で
(私はそれをしっかり覚えている)
(こまやかなカニの身)
(飯を覆うほどの)
これ 食べてもいいの
全部食べていいんだよ
おいしいな おばあちゃん
そうかい よかった よかった
カニは大好物だよ
よかったねえ
祖母はまったく箸をつけず
カニの盛られた飯に集中する私を 黙って見つめていた
私たちは 東京から丸一日列車に揺られ
その幻の駅に着いたのだった
だか飯を頬張ろうとも
私の耳は求めていた
遠くに来てしまったねえ
ほんとだねえ 遠くに来てしまったねえ
ずいぶんと遠くだ
ほんとうに遠くだねえ
ここはなんという駅
私の耳の記憶はそこから写真の外に出てしまった
あれから三十年以上の歳月が過ぎ
様々な喜びと悲しみがあり
(祖母との別れも)
今一人の旅人となってこの国を歩き
視界の臨界を越えたり
言葉にはならない小さな祈りを拾い集めたりして
私は米の飯を食べている
それは記憶の底に眠ったままに
かつての幻の駅を探すためだった
おばあちゃん
ここだったんだね
長万部(おしゃまんべ)の駅
あの時の海が目の前にある
空を支えている
私はこの駅を探していました
なぜなら
それは私ももっとも古い記憶
私という心の誕生の印
私の心が生を受けた初めての光
海の向こうのおぼろげな影は
いつかはそこに戻るであろう私を 黙って見つめている
魔神ではなかったのだ
過ぎ行くだけの日々
私は愛された