曼陀羅ぬりえ

若いともだちのマリオ曼陀羅(田内万里夫)さんが
「大人のぬりえ」を刊行されたので紹介します。
その名も「心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ」(猿江商會)。
英国、台湾に続き、日本初上陸です。
「planet whispers」と称して、
妙な言葉を量産していた頃のボクとSimon Paxtonも
友情出演しています。
どうやってこのぬりえの素晴らしさをみなさんにお伝えしようかと考えましたが、
あとがきの代わりに「ぬってしまったあとで」という拙文を載せていますので、
これを抜粋いたします。
「ぬってしまったあとで」
ぬってしまったぬり絵は、ぬる前のぬり絵には戻せない。さいわいにも、これはなかなかいいのではないかというぬり絵が完成した場合は、芋をふかす前にそのぬり絵を見て微笑み、芋をふかしながらも見入ってうっとりし、さらには芋を頬張りながら何度でも鑑賞し、ひとつの大事をなしとげたような気分になれる。
だが、雑にぬってしまったり、一本線がはみ出てしまったり、色の組み合わせが悪かったりすると、もう元には戻せない以上、芋どころではない。どうも咽の奥から額のあたりにかけて不快なもわもわが滞留したりして、自分は今日、時間の使い方をまちがったのではないか、あるいはこれから不吉なことが起きるのではないかと勘ぐり、布団を敷く方向を変えてみたりする人まで現われる。
たかがぬり絵、されどぬり絵である。でも、だからといってかまえてはいけない。この曼陀羅ぬり絵を世に放った鬼才マリオ画伯のことを知れば、みなさんはもっと気楽にぬり絵を楽しめるようになると思う。
私は、下北沢の線路横のどぶに捨てられていたウクレレの弦の上ではじめてマリオ画伯に会った。そのときの画伯の言葉を忘れない。
「ボクはちっちゃい頃、いつも太陽をじっと見ていたんですよ」
あまり近付いてはいけない人かもしれないと思った。しかし、画伯との結びつきは会うたびにすこしずつ強くなっていった。なぜなら画伯は、出会う人の未来の幸福をいつも考えているからだ。学校を出てから三十年もたった私にいきなりフランス語の学習を勧めたのは画伯だ。なぜ? とむっとしたが、おかげさまで翻訳の仕事まで舞い込むようになった。
ボツになった原稿を抱えて酔いつぶれていた私に、同じく酔いつぶれていた編集者を紹介してくれたのは画伯だ。その結果、原稿は小説として売れ、映画になり、世界の人が観ることになった。
オーストラリアの忍者、サイモン・パクストンと私が構築したひそかな言葉の世界を思い出し、ぬり絵とのカップリングの妙をここに実現させてくれたのも画伯だ。画伯はすなわち、起きたできごとを固定化した過去ととらえず、そこから伸びる未来への軸のなかでいつも流動的に融合させ、力に変えている。すんげえ。
そのような意味では、ぬってしまったぬり絵も、実はまだぬられていない。失敗したぬり絵も実はまだ失敗していない。四次元の曼荼羅ぬり絵の向こうで、時が色鉛筆を持ち、こちらを見ている。マリオ画伯は本当に、太陽の分身だ。