
先週末は、ある映像作品のプロット原稿を抱えながらも、
山形国際ドキュメンタリー映画祭に吸い寄せられ、
小高い丘の一本の木になったような気分に浸りました。
方々からの風を部位を越えた葉の群れが感じ取ったのです。
ただ、初日は遅くに着いたもので、
映画ではなく、山形のお酒に浸るウドの大木になってしまいました。
それでもその結果、事務局のみなさんと焼き鳥屋さんで偶然再会し、
言葉が猪口の底から湧いて出るような賑やかな時間となりました。
その後の二日間に出会った作品を紹介します。
「6月の取引」(ブラジル/マリア・アウグスタ・ラモス監督)
昨年のサッカーのワールドカップはブラジルでしたね。
開催を前にして、社会の諸問題を訴えるデモやストライキが頻発しているというニュースに
みなさんも度々触れたかと思います。
南米経済の牽引都市のひとつであり、同時に貧困を基盤とする多層の街サンパウロ。
ストライキの首謀者となったために地下鉄職員を解雇される男や、
仲間を何人も交通事故で失いながら、しかし生活のためにバイク便のドライバーを続ける男など、
日々いたみや苦味のなかで街を見つめている人々の視線にカメラは添います。
長野パラリンピックのテーマ曲を作詞したボクは、
先日もリオのパラリンピックを目指す選手と対談しました。
基本的にはスポーツの祭典を支持する側にいるのでしょう。
しかし、山形のあとに出向いた会津で、いまだ延々と続く仮設住宅を見たとき、
この作品のなりたちに通じる、同じ風の吹き出し口に立っているような心許なさを感じました。
祭典に向かう盛り上りのなかで切り捨てられていくもの、
目くらましをされ、見えないところに追いやられていくものの。
「取引」の場にさえ臨めない無数の民の吐息が一コマずつにしみこんでいます。
「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)」(日本/三上智恵監督)
どうしてこれ以上、沖縄に新しい米軍基地を造らなければいけないのか?
映画は、辺野古の海を泳ぐジュゴンや、ここにしかいないサンゴたちの映像から始まります。
そして、辺野古を埋め立てさせないぞと抗議に立ち上がった人々。
沖縄戦で米兵に全身を焼かれた文子おばあ。
85歳になった今も、不自由な体で辺野古での座り込みを続けるおばあを追いながら、
抗議をする人たち一人ずつの生活に、なまの人生に、カメラは焦点を絞り込んでいきます。
政府という絶対的権力の前で、辺野古では子供たちも含めて、「屈せず」の姿勢を貫いています。
同時にまた、強引に補償金を振り込まれ、政府側の頭数に無言のまま転じていく漁民もいます。
その葛藤のなかで、体を張って抗議していた女子高生たちが、
ついに海中での測量工事が始まったとき、「くやしい」と声をあげて泣き出すのです。
あれはやられた。
ボクも涙が止まらなくなった。
これは感情になびいたからではなく、
人としての、生を受けたものたちの、精一杯の叫びだから泣けたのです。
沖縄の哀しみを(あるいは福島の哀しみを)
その愚鈍さゆえに露とも感ぜず、
経済発展ばかりをうたう貧しき人々の空疎な巨体。
フィルムの向こう側に、その幻影がモンスターとして現れます。
「グッバイ・シュレンドルフ」(ライブと映像)
2年前の映画祭、ボクらアルルカンが登場した「フォーラム4」で、
カンヌ映画祭にも出演したレバノン人ラッパー、ワエル・クデさんと、
仲野麻紀さん(サックス)とヤン・ピタールさん(ウード・ギター12弦)のユニット「Ky」のライブがありました。
前半は、ワエルさんのパフォーマンス(というより、彼がコンピュータで操作する音声と映像世界)、
そこに星の光のように音を注ぐピタールさんのギター。
背景に映し出されるのは、シュレンドルフ監督がレバノン内戦時に撮影したフィルムで、
完全に破壊された街、つまり現実の戦場を借りて、本物の兵士たちに演技をさせたものだそうです。
かぶさる音声は、読み書きができなかったレバノンの人々が、
書簡代わりにカセットテープに吹き込んだ声の記録。
火を噴く廃墟と、肉親をいたわる人々の声。
そこにウードの弦が、消えてしまう虹の音のように繊細に揺れ動き、
なんだろうこれは、世界はとにかく広いのだなあ、
表現は無限だなあ、その根っこは深淵すぎて、ああ、もう今回の人生では追い切れないのだと逆にすこし寂しく感じました。
後半は、「Ky」のライブ。
仲野麻紀さんがあまりに柔らかく突出していて、
音楽のソースとしては、エジプトやトルコ、フランスのブルターニュ地方などを旅しましたが、
やはり彼女が、「私たちの音楽はここにあります」とひとことあってから場内を包み始めた
エリック・サティ曲のジャズアレンジが図抜けて神々しかったです。
麻紀さんはなんと、サックス以外にも金管をもう一本同時に口に加え、
1人で2本のラッパを演奏しながらギターを煽っていくという、
ちょっと信じられない次元でのボクたちへの挑発と伝承を試みるのでした。
「無音の叫び声 木村迪夫の牧野村物語」(日本/原村政樹監督/語り 室井滋 朗読 田中泯)
ある山形県民の人生の記録。
千人以上入る市民会館大ホールが朝から満員となりました。
詩人として、農民として、耕しもし、植え付けもし、日照りに泣いて、刈り取りでくたびれて、
雪を見ながら一杯の酒を呑んだ、そう、やはり、山形の、一人の生の記録です。
小作人の長男として生まれた木村迪夫(みちお)さんは
父親を中国戦線で、叔父を南の島で失います。
定時制高校に通いながら農民となり、
少しずつ詩を書き始めます。
そして60年、今や14冊の詩集を刊行し、東北を代表する農民詩人として各地で朗読し、
なおかつ果樹園や田畑の持ち主ともなった迪夫さんですが、
当然、順風満帆だったわけではなく、冬は出稼ぎに出て東京の建築現場で働き、
夏は農業以外にもゴミ回収業者となって働きに働き詰めた、
そんな日々を歩かれてきた方です。
叔父さんの骨を探しに、遺骨収集隊の一員として南の島へ。
今は米軍管理下にあるその島は、滞在日数が限られてしまいます。
しかし、たった二週間のキャンプを経て、
掘り起こした遺骨が700体以上。
そのすべての骨を積み上げてガソリンをかけ、火を放つシーンは
「骨ではなく、人間が燃えているのだ」
との言葉通り、南洋に散った日米の若ものたちの念がそのまま伝わってくるかのようでした。
「無音の叫び声」というタイトルは、迪夫さんという農民詩人の透明な影の向こう側を体現する言葉であると同時に、
まさにこのシーンのために降ってきた、戦争に駆り出されたものたちの魂の果てを言い表す文字のオブジェでもありました。
もうひとつ、目撃者のようにして観てしまったのは、
歳をとってから、迪夫さんがお父さんの亡くなった場所を中国に探しに行く場面です。
結局のところ、どこで亡くなったのか正確な場所はわからなかったのですが、
老いてしまった子供が、中国の平原を前にして
「親父、来たぞー。いっしょに日本に帰ろう!」と呼び掛けるところは、
これはもう、もう、スクリーンが滲みました。
終演後の舞台挨拶で、迪夫さんの詩を田中泯さんが朗読されました。
またこれが良かった。
しんしんと降る雪のように、胸に迫りました。
「シリアの窓から」(フランス、ドイツ、シリア、カタール/ハーゼム・アル=ハムウィ監督)
監督は画家でもあります。ペン一本で細密画のようにダマスクスの街を
(しかし抽象的に)描きます。
冒頭、アサド大統領の似顔絵を描いてしまった監督が、
秘密警察が乗り込んできたバスのなかで、こっそりとその紙を飲み込んでしまう語りは圧巻です。
独裁国家を生きる人々の恐怖と不安が充満したこの作品は、
細密画の描かれた風船がいつ爆発するかわからないような緊張感のなかで、
それでもそこで生きていかなければいけない人々の独白を拾い上げていきます。
彼らの顔に仮面をかぶせて。
ただ、これはまだ序章だったのです。
シリア内戦のさなかに編集されたこの作品には、
内戦へと傾れ込んでいく息詰まる空気がそのままパックされていますが、
その後の本質的国家崩壊、ISの侵攻、大量の難民がヨーロッパ各地へと流れ込んでいる現状までは
当然のことながら追えていません。
「いつかいいときがくる」「もう終わったのだから」と、服役後の叔父が語る場面は、
だから逆に、とても切ないものを私たちに突きつけてきます。
「ホース・マネー」(ポルトガル/ペドロ・コスタ監督)
これをドキュメンタリーと言っていいのかどうか、ボクにはわかりません。
出演者がプロの俳優ではなく、一人の老移民者であること、
セリフではなく、彼や、テーマとなる時代にまつわる人々の独白で構成されていること、
もしかたしたら、台本なども用意されてはいないであろうこと。
そうした要素からすれば、たしかにこの作品はドキュメンタリーなのですが、
映像がね・・・ワンシーンずつの映像が・・・あまりに美しく、力に満ちていて、
魔法的であり、もう本当に凄まじく、詩的を越えてなお詩的なのです。
ペドロ・コスタ監督はアフタートークで
「全力を尽くしているだけだ」
と、ボクと同じ部分で体温が上昇し、発問してしまった人に答えていましたが、
いやいや、たしかに映像美という一点に絞れば、
ジャンル分けのすべてが虚しくなるほど、この作品の美には圧倒されるのです。
ただ、内容としてはかなり難解ですよ。
ポルトガルのカーネーション革命とその後の社会推移について多少の事前知識が必要。
そして老移民、ヴェントーラの目として時間を自由に行き来しながら
忘れ去られた光景の横に、ボクらも静かに立つべきです。
以上、山形国際ドキュメンタリー映画祭2015の(たった6作品ですが)感想文でした。
なお、映画「あん」が、ドーハ国際映画祭に招待されたため、
希林さんや永瀬さんといっしょに来月末カタールに行ってきます。
ウクライナでは「どんなウクライナ作品が好きですか」と質問されて窮地に陥ってしまったので、
アラブの作品をこれからドーンと観るところですよ。
そうそう。今年の山形はコンペ優勝が「真珠のボタン」(チリ/パトリシオ・グスマン監督)に決定。
これと、「ラスト・タンゴ」(アルゼンチン/ヘルマン・クラル監督)、「トトと二人の姉」(ルーマニア/アレクサンダー・ナナウ監督)が、
早くユーロ・スペースか、アップリンクか、岩波ホールあたりに来ないかなと思っています。