fc2ブログ

ライブのお知らせ

IMG_0208_convert_20151025203852.jpg

昨日、早稲田大学の大隈講堂で行われた
朗読劇「あん」におこしいただいた皆さん、ありがとうございました。
ハンセン病問題を通じて「人間と社会」に迫ろうとしている学生サークル「橋」の皆さん、
また、元患者代表として森元美代治さんにもご出演いただき、
3世代が力を合わせて舞台をつくれたことにまず感じ入りました。

徳江さんとワカナちゃんを演じる中井貴惠さんの声、
そしてピクルス田村くんのギターが、
空間に浮かぶ水晶のように講堂内で輝きました。
客席の皆さんの集中力も凄まじく、自分にとって、生涯忘れ得ない夜になりそうです。
本当にありがとうございました。

次回はアルルカンのライブです。
叫ぶ詩人の会から、今にわたるまでの変遷を語りと歌でお届けします。

11月15日(日)ぎゃらりいホンダ 大阪府堺市中区深井沢町3134
開場 午後5時30分  開演 午後6時  入場料3500円(パーティー付き)
つちびと作家・可南さんの個展会場でのライブとなります。事前予約制、限定40名。
予約 072-278-3381(ぎゃらりいホンダ)
可南さんとつちびとについては「命のかたち・・・心のかたち・・・」
http://happy.ap.teacup.com/kanan/

12月20日(日)Eggman Tokyo East 東京都千代田区岩本町2-6-12-B1
tel 03-5829-6400
開場 午後6時 開演 午後6時30分 前売3090円 当日3600円
ゲスト:弾く米国人 ジェフ・ハッシュ
予約は Eggman Tokyo East のサイトから、あるいはお電話でどうぞ。
http://www.egg-mte.com/contact/index.html

早稲田で待っております!

いよいよ今週土曜日、
早稲田大学の大隈(おおくま)講堂にて、
朗読劇「あん」の幕が開きます。

当初、会場は大隈小講堂の予定でしたが、
お客様の予約が想定数を越えたため、
大隈大講堂での公演となります。
予約していただいたみなさん、
ありがとうございました。

10月15日までの予約受付となっていますが、
さすがに大講堂とあって、
あと5万人くらいは入れます。
当日の入場、いくらでも可能ですので、
みなさん、ぜひいらして下さい。

入場無料です。

16時半より、
ハンセン病問題支援の学生NGO「橋(Qiao)」と
元患者代表、森元美代治さんと私によるシンポジウム。
17時半より、
朗読劇「あん」です。
中井貴惠さんの徳江とワカナ、
ピクルス田村君のギターは本当に素晴らしく、
耳に記憶として残ります。

終演後は、ボクと貴惠さんのサイン会も行います。

高田馬場駅から早稲田大学行きのバスに乗れば、
終点が大隈講堂です。

では、お待ちしています!

台湾版「あん」

taiwan-an_convert_20151018152120.jpg

台湾で小説「あん」が刊行されました。
「恋恋銅鑼焼」というタイトルで、
多利安助川作品集2となります。
(卓惠娟訳/博識図書)

あんを炊く鍋に降り掛かる桜の花びらが、
きらきらと光る素材で描かれていて、
「ピンザの島」に続き、またもや想定外のやわらかな装丁です!

台湾のみなさんは、「あん」をどんなふうに読んでくれるのだろう。
映画「あん」はすでに封切られているので、
その結果とともに知りたいところです。

山形国際ドキュメンタリー映画祭

yamagata-arab_convert_20151018152053.jpg


先週末は、ある映像作品のプロット原稿を抱えながらも、
山形国際ドキュメンタリー映画祭に吸い寄せられ、
小高い丘の一本の木になったような気分に浸りました。
方々からの風を部位を越えた葉の群れが感じ取ったのです。

ただ、初日は遅くに着いたもので、
映画ではなく、山形のお酒に浸るウドの大木になってしまいました。
それでもその結果、事務局のみなさんと焼き鳥屋さんで偶然再会し、
言葉が猪口の底から湧いて出るような賑やかな時間となりました。

その後の二日間に出会った作品を紹介します。

「6月の取引」(ブラジル/マリア・アウグスタ・ラモス監督)

昨年のサッカーのワールドカップはブラジルでしたね。
開催を前にして、社会の諸問題を訴えるデモやストライキが頻発しているというニュースに
みなさんも度々触れたかと思います。

南米経済の牽引都市のひとつであり、同時に貧困を基盤とする多層の街サンパウロ。
ストライキの首謀者となったために地下鉄職員を解雇される男や、
仲間を何人も交通事故で失いながら、しかし生活のためにバイク便のドライバーを続ける男など、
日々いたみや苦味のなかで街を見つめている人々の視線にカメラは添います。

長野パラリンピックのテーマ曲を作詞したボクは、
先日もリオのパラリンピックを目指す選手と対談しました。
基本的にはスポーツの祭典を支持する側にいるのでしょう。

しかし、山形のあとに出向いた会津で、いまだ延々と続く仮設住宅を見たとき、
この作品のなりたちに通じる、同じ風の吹き出し口に立っているような心許なさを感じました。
祭典に向かう盛り上りのなかで切り捨てられていくもの、
目くらましをされ、見えないところに追いやられていくものの。

「取引」の場にさえ臨めない無数の民の吐息が一コマずつにしみこんでいます。

「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)」(日本/三上智恵監督)

どうしてこれ以上、沖縄に新しい米軍基地を造らなければいけないのか?
映画は、辺野古の海を泳ぐジュゴンや、ここにしかいないサンゴたちの映像から始まります。
そして、辺野古を埋め立てさせないぞと抗議に立ち上がった人々。
沖縄戦で米兵に全身を焼かれた文子おばあ。
85歳になった今も、不自由な体で辺野古での座り込みを続けるおばあを追いながら、
抗議をする人たち一人ずつの生活に、なまの人生に、カメラは焦点を絞り込んでいきます。

政府という絶対的権力の前で、辺野古では子供たちも含めて、「屈せず」の姿勢を貫いています。
同時にまた、強引に補償金を振り込まれ、政府側の頭数に無言のまま転じていく漁民もいます。
その葛藤のなかで、体を張って抗議していた女子高生たちが、
ついに海中での測量工事が始まったとき、「くやしい」と声をあげて泣き出すのです。

あれはやられた。
ボクも涙が止まらなくなった。

これは感情になびいたからではなく、
人としての、生を受けたものたちの、精一杯の叫びだから泣けたのです。

沖縄の哀しみを(あるいは福島の哀しみを)
その愚鈍さゆえに露とも感ぜず、
経済発展ばかりをうたう貧しき人々の空疎な巨体。
フィルムの向こう側に、その幻影がモンスターとして現れます。

「グッバイ・シュレンドルフ」(ライブと映像)

2年前の映画祭、ボクらアルルカンが登場した「フォーラム4」で、
カンヌ映画祭にも出演したレバノン人ラッパー、ワエル・クデさんと、
仲野麻紀さん(サックス)とヤン・ピタールさん(ウード・ギター12弦)のユニット「Ky」のライブがありました。

前半は、ワエルさんのパフォーマンス(というより、彼がコンピュータで操作する音声と映像世界)、
そこに星の光のように音を注ぐピタールさんのギター。
背景に映し出されるのは、シュレンドルフ監督がレバノン内戦時に撮影したフィルムで、
完全に破壊された街、つまり現実の戦場を借りて、本物の兵士たちに演技をさせたものだそうです。

かぶさる音声は、読み書きができなかったレバノンの人々が、
書簡代わりにカセットテープに吹き込んだ声の記録。
火を噴く廃墟と、肉親をいたわる人々の声。
そこにウードの弦が、消えてしまう虹の音のように繊細に揺れ動き、
なんだろうこれは、世界はとにかく広いのだなあ、
表現は無限だなあ、その根っこは深淵すぎて、ああ、もう今回の人生では追い切れないのだと逆にすこし寂しく感じました。

後半は、「Ky」のライブ。
仲野麻紀さんがあまりに柔らかく突出していて、
音楽のソースとしては、エジプトやトルコ、フランスのブルターニュ地方などを旅しましたが、
やはり彼女が、「私たちの音楽はここにあります」とひとことあってから場内を包み始めた
エリック・サティ曲のジャズアレンジが図抜けて神々しかったです。
麻紀さんはなんと、サックス以外にも金管をもう一本同時に口に加え、
1人で2本のラッパを演奏しながらギターを煽っていくという、
ちょっと信じられない次元でのボクたちへの挑発と伝承を試みるのでした。

「無音の叫び声 木村迪夫の牧野村物語」(日本/原村政樹監督/語り 室井滋 朗読 田中泯)

ある山形県民の人生の記録。
千人以上入る市民会館大ホールが朝から満員となりました。
詩人として、農民として、耕しもし、植え付けもし、日照りに泣いて、刈り取りでくたびれて、
雪を見ながら一杯の酒を呑んだ、そう、やはり、山形の、一人の生の記録です。

小作人の長男として生まれた木村迪夫(みちお)さんは
父親を中国戦線で、叔父を南の島で失います。
定時制高校に通いながら農民となり、
少しずつ詩を書き始めます。
そして60年、今や14冊の詩集を刊行し、東北を代表する農民詩人として各地で朗読し、
なおかつ果樹園や田畑の持ち主ともなった迪夫さんですが、
当然、順風満帆だったわけではなく、冬は出稼ぎに出て東京の建築現場で働き、
夏は農業以外にもゴミ回収業者となって働きに働き詰めた、
そんな日々を歩かれてきた方です。

叔父さんの骨を探しに、遺骨収集隊の一員として南の島へ。
今は米軍管理下にあるその島は、滞在日数が限られてしまいます。
しかし、たった二週間のキャンプを経て、
掘り起こした遺骨が700体以上。
そのすべての骨を積み上げてガソリンをかけ、火を放つシーンは
「骨ではなく、人間が燃えているのだ」
との言葉通り、南洋に散った日米の若ものたちの念がそのまま伝わってくるかのようでした。
「無音の叫び声」というタイトルは、迪夫さんという農民詩人の透明な影の向こう側を体現する言葉であると同時に、
まさにこのシーンのために降ってきた、戦争に駆り出されたものたちの魂の果てを言い表す文字のオブジェでもありました。

もうひとつ、目撃者のようにして観てしまったのは、
歳をとってから、迪夫さんがお父さんの亡くなった場所を中国に探しに行く場面です。
結局のところ、どこで亡くなったのか正確な場所はわからなかったのですが、
老いてしまった子供が、中国の平原を前にして
「親父、来たぞー。いっしょに日本に帰ろう!」と呼び掛けるところは、
これはもう、もう、スクリーンが滲みました。

終演後の舞台挨拶で、迪夫さんの詩を田中泯さんが朗読されました。
またこれが良かった。
しんしんと降る雪のように、胸に迫りました。

「シリアの窓から」(フランス、ドイツ、シリア、カタール/ハーゼム・アル=ハムウィ監督)

監督は画家でもあります。ペン一本で細密画のようにダマスクスの街を
(しかし抽象的に)描きます。
冒頭、アサド大統領の似顔絵を描いてしまった監督が、
秘密警察が乗り込んできたバスのなかで、こっそりとその紙を飲み込んでしまう語りは圧巻です。

独裁国家を生きる人々の恐怖と不安が充満したこの作品は、
細密画の描かれた風船がいつ爆発するかわからないような緊張感のなかで、
それでもそこで生きていかなければいけない人々の独白を拾い上げていきます。
彼らの顔に仮面をかぶせて。

ただ、これはまだ序章だったのです。
シリア内戦のさなかに編集されたこの作品には、
内戦へと傾れ込んでいく息詰まる空気がそのままパックされていますが、
その後の本質的国家崩壊、ISの侵攻、大量の難民がヨーロッパ各地へと流れ込んでいる現状までは
当然のことながら追えていません。

「いつかいいときがくる」「もう終わったのだから」と、服役後の叔父が語る場面は、
だから逆に、とても切ないものを私たちに突きつけてきます。

「ホース・マネー」(ポルトガル/ペドロ・コスタ監督)

これをドキュメンタリーと言っていいのかどうか、ボクにはわかりません。
出演者がプロの俳優ではなく、一人の老移民者であること、
セリフではなく、彼や、テーマとなる時代にまつわる人々の独白で構成されていること、
もしかたしたら、台本なども用意されてはいないであろうこと。
そうした要素からすれば、たしかにこの作品はドキュメンタリーなのですが、
映像がね・・・ワンシーンずつの映像が・・・あまりに美しく、力に満ちていて、
魔法的であり、もう本当に凄まじく、詩的を越えてなお詩的なのです。

ペドロ・コスタ監督はアフタートークで
「全力を尽くしているだけだ」
と、ボクと同じ部分で体温が上昇し、発問してしまった人に答えていましたが、
いやいや、たしかに映像美という一点に絞れば、
ジャンル分けのすべてが虚しくなるほど、この作品の美には圧倒されるのです。

ただ、内容としてはかなり難解ですよ。
ポルトガルのカーネーション革命とその後の社会推移について多少の事前知識が必要。
そして老移民、ヴェントーラの目として時間を自由に行き来しながら
忘れ去られた光景の横に、ボクらも静かに立つべきです。

以上、山形国際ドキュメンタリー映画祭2015の(たった6作品ですが)感想文でした。

なお、映画「あん」が、ドーハ国際映画祭に招待されたため、
希林さんや永瀬さんといっしょに来月末カタールに行ってきます。
ウクライナでは「どんなウクライナ作品が好きですか」と質問されて窮地に陥ってしまったので、
アラブの作品をこれからドーンと観るところですよ。

そうそう。今年の山形はコンペ優勝が「真珠のボタン」(チリ/パトリシオ・グスマン監督)に決定。
これと、「ラスト・タンゴ」(アルゼンチン/ヘルマン・クラル監督)、「トトと二人の姉」(ルーマニア/アレクサンダー・ナナウ監督)が、
早くユーロ・スペースか、アップリンクか、岩波ホールあたりに来ないかなと思っています。

曼陀羅ぬりえ

mandara-nurie_convert_20151018152007.jpg

若いともだちのマリオ曼陀羅(田内万里夫)さんが
「大人のぬりえ」を刊行されたので紹介します。
その名も「心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ」(猿江商會)。
英国、台湾に続き、日本初上陸です。

「planet whispers」と称して、
妙な言葉を量産していた頃のボクとSimon Paxtonも
友情出演しています。

どうやってこのぬりえの素晴らしさをみなさんにお伝えしようかと考えましたが、
あとがきの代わりに「ぬってしまったあとで」という拙文を載せていますので、
これを抜粋いたします。

「ぬってしまったあとで」

 ぬってしまったぬり絵は、ぬる前のぬり絵には戻せない。さいわいにも、これはなかなかいいのではないかというぬり絵が完成した場合は、芋をふかす前にそのぬり絵を見て微笑み、芋をふかしながらも見入ってうっとりし、さらには芋を頬張りながら何度でも鑑賞し、ひとつの大事をなしとげたような気分になれる。


 だが、雑にぬってしまったり、一本線がはみ出てしまったり、色の組み合わせが悪かったりすると、もう元には戻せない以上、芋どころではない。どうも咽の奥から額のあたりにかけて不快なもわもわが滞留したりして、自分は今日、時間の使い方をまちがったのではないか、あるいはこれから不吉なことが起きるのではないかと勘ぐり、布団を敷く方向を変えてみたりする人まで現われる。

 たかがぬり絵、されどぬり絵である。でも、だからといってかまえてはいけない。この曼陀羅ぬり絵を世に放った鬼才マリオ画伯のことを知れば、みなさんはもっと気楽にぬり絵を楽しめるようになると思う。

 私は、下北沢の線路横のどぶに捨てられていたウクレレの弦の上ではじめてマリオ画伯に会った。そのときの画伯の言葉を忘れない。
「ボクはちっちゃい頃、いつも太陽をじっと見ていたんですよ」

 あまり近付いてはいけない人かもしれないと思った。しかし、画伯との結びつきは会うたびにすこしずつ強くなっていった。なぜなら画伯は、出会う人の未来の幸福をいつも考えているからだ。学校を出てから三十年もたった私にいきなりフランス語の学習を勧めたのは画伯だ。なぜ? とむっとしたが、おかげさまで翻訳の仕事まで舞い込むようになった。

 ボツになった原稿を抱えて酔いつぶれていた私に、同じく酔いつぶれていた編集者を紹介してくれたのは画伯だ。その結果、原稿は小説として売れ、映画になり、世界の人が観ることになった。

 オーストラリアの忍者、サイモン・パクストンと私が構築したひそかな言葉の世界を思い出し、ぬり絵とのカップリングの妙をここに実現させてくれたのも画伯だ。画伯はすなわち、起きたできごとを固定化した過去ととらえず、そこから伸びる未来への軸のなかでいつも流動的に融合させ、力に変えている。すんげえ。

 そのような意味では、ぬってしまったぬり絵も、実はまだぬられていない。失敗したぬり絵も実はまだ失敗していない。四次元の曼荼羅ぬり絵の向こうで、時が色鉛筆を持ち、こちらを見ている。マリオ画伯は本当に、太陽の分身だ。

義援金会計報告

みなさん、会計報告です!

常総市の車椅子の行政書士
古性隆さんを通じて、みなさんのお気持ちを被災地で役立ててもらおう!
というわけで、
「アルルカン洋菓子店」のCDアルバム「星屑通りで店開き」をご購入いただき、
その全額を寄付しちゃおうという集団的道化師な企画!

なんと182人のみなさんにご購入いただき、
CD代金とカンパを合わせ、
現在までに68万2000円が集まりました。

アルルカンなみなさん、本当にありがとうございます。

朗読劇『あん』の東村山公演の際、
募金としていただいた6万2712円を合わせ、
計74万4712円を明日、古性さんに届けにいきます。

関東鉄道常総線が洪水によって不通となっているため
水海道駅までしか近付けませんが、
明日の夕方ここで古性さんに会い、
みなさんのお名前を記した書面とともに、
全額寄付して参ります。

ご協力いただいたみなさん、
心から感謝いたします。

http://www.yourepeat.com/watch/?v=H2eDwVlItCc
プロフィール
作家・歌手・明治学院大学国際学部教授

ドリアン助川

Author:ドリアン助川
物語をつづり、詩をうたう道化師です。

ライブ・公演情報
2021年12月
24日&25日
『新宿の猫』
菊川なぁ〜じゅ
近刊
「水辺のブッダ」(小学館)
「新宿の猫」(ポプラ社)
検索フォーム
最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ