塔和子さんと吉永小百合さん
練馬文化センターで催された「風の舞」の上映会に行って参りました。
この作品は、ハンセン病快復者の詩人、故・塔和子さんの人生と創造を巡るドキュメンタリーで、劇中での塔さんの詩は、吉永小百合さんが朗読されています。今回はなんと、その吉永小百合さんが舞台上に登場され、生で朗読をされるとあって、チケットは完売、ホールは満員となりました。
塔和子さんの詩。
御本人も、「苦しみ」「つらさ」という言葉を厭わなく記す人生がそこにはあります。しかし、そこに留まらず、万人を照らす輝きとなる力が塔さんの詩にはあります。むろん、ハンセン病の元患者としての日々を切り離せるわけではありませんが、人間としての普遍的な高みに作品が達しているため、逆を言えば、根源の孤独にまで魂を浸しつつ、それでも立ち上がろうとする志を持たれているため、どんな立場の人にも、どの国のどんな人にも届くニュアンスがあるように感じられるのです。
そして、吉永小百合さん。
ご存知の通り、吉永さんは原爆の詩に始まり、ハンセン病関連の詩作の朗読、そして現在では福島原発の被害にあい故郷に帰れなくなった人々の言葉を朗読し、ある意味では国家を向こうに回され、旺盛な活動をされています。場合によってはこうした一連の活動に対し、抵抗を覚える人もいるでしょう。
でも、違うんだなあ。吉永さんは本当に堂々とされていて、あらゆる機微が原野から立ちのぼっていることを知りながら、すべて全身で受け止め、それを声に出されているような・・・つまり、正真正銘のいたわりを持った、肝のすわった朗読者でありました。
吉永さんに花束をあげる係となった少し障碍のあるお子さんが、どうすればいいのかわからなくなって、舞台の上でちょっと立ち止まってしまった時があったのです。すると、吉永さんは微笑みながらその子の手をくるみ抱くようにして、ともに去っていかれました。正直なことをいうと、ちょいと頰を伝わるものがありました。
ああ、このシーンは覚えていよう。ずっと覚えていよう。
ありがたく、ありがたく、とにかく焼酎のお湯割りをいただき、夜を完結させたいと思ったのです。
焼酎ではなく、日本酒をいただいたので、調布に戻ってからもう一度やり直しましたが。
とにかく、素敵な夜でした。
この作品は、ハンセン病快復者の詩人、故・塔和子さんの人生と創造を巡るドキュメンタリーで、劇中での塔さんの詩は、吉永小百合さんが朗読されています。今回はなんと、その吉永小百合さんが舞台上に登場され、生で朗読をされるとあって、チケットは完売、ホールは満員となりました。
塔和子さんの詩。
御本人も、「苦しみ」「つらさ」という言葉を厭わなく記す人生がそこにはあります。しかし、そこに留まらず、万人を照らす輝きとなる力が塔さんの詩にはあります。むろん、ハンセン病の元患者としての日々を切り離せるわけではありませんが、人間としての普遍的な高みに作品が達しているため、逆を言えば、根源の孤独にまで魂を浸しつつ、それでも立ち上がろうとする志を持たれているため、どんな立場の人にも、どの国のどんな人にも届くニュアンスがあるように感じられるのです。
そして、吉永小百合さん。
ご存知の通り、吉永さんは原爆の詩に始まり、ハンセン病関連の詩作の朗読、そして現在では福島原発の被害にあい故郷に帰れなくなった人々の言葉を朗読し、ある意味では国家を向こうに回され、旺盛な活動をされています。場合によってはこうした一連の活動に対し、抵抗を覚える人もいるでしょう。
でも、違うんだなあ。吉永さんは本当に堂々とされていて、あらゆる機微が原野から立ちのぼっていることを知りながら、すべて全身で受け止め、それを声に出されているような・・・つまり、正真正銘のいたわりを持った、肝のすわった朗読者でありました。
吉永さんに花束をあげる係となった少し障碍のあるお子さんが、どうすればいいのかわからなくなって、舞台の上でちょっと立ち止まってしまった時があったのです。すると、吉永さんは微笑みながらその子の手をくるみ抱くようにして、ともに去っていかれました。正直なことをいうと、ちょいと頰を伝わるものがありました。
ああ、このシーンは覚えていよう。ずっと覚えていよう。
ありがたく、ありがたく、とにかく焼酎のお湯割りをいただき、夜を完結させたいと思ったのです。
焼酎ではなく、日本酒をいただいたので、調布に戻ってからもう一度やり直しましたが。
とにかく、素敵な夜でした。